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「無外流を歩く」の第2回は、流祖「辻月丹」が参禅し悟りを開いた「吸江寺」に行ってみましょう。 | |
二十六才の時「辻兵内」は師匠より山口流の免許を認可、同時に江戸出府を許され、 麹町九丁目に道場を構え、山口流兵法の看板を掲げましたが、名も無い田舎兵法者として相手にされず、僅かばかりの弟子と稽古し、修行しました。また兵内は、兵内は、学問と心の修養の必要を感じ、麻布吸江寺の石潭禅師に師事、 禅学と中国の古典を学びました。 その後石潭禅師が遷化されたため、続けて第二世・神州和尚について参禅、兵内四十五歳の時悟りを開き、神州和尚は師石潭禅師の名で次の偈(げ)を与えました。兵内を改め月丹資茂(げったん すけもち)となし、流名を偈よりとり無外流としたのは、元禄六年(1693年)の事でした。 一法実無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動着則光清 さて、この普光山吸江寺ですが、元は麻布桜田町にありましたが、元禄十四年に渋谷に移転しております。現在の吸江寺は渋谷区東四丁目、國學院大學渋谷校舎の隣にある小名刹です。渋谷駅から日赤医療センター前行きのバスに乗り、国學院大学前で下車すれば徒歩2〜3分なのですが、渋谷から歩いても10分足らずということで、ブラブラと歩いてみました。 |
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渋谷駅から歩道橋を渡り、宮益坂方面に向かって渋谷警察署脇を通り、50m程を右に曲がって裏道に入ります。しばらく歩くと「金王八幡宮」の脇に出ます。 金王八幡宮 この金王八幡社一帯は中世豪族、渋谷の地名ともなった渋谷氏の居館・渋谷城のあととみられています。寛治6年(1092)、渋谷氏の祖・河崎土佐守基家が寛治6年(1092)渋谷城内に八幡宮を創建。基家の嫡子重家のときに「渋谷」の姓を賜り、渋谷氏は八幡宮を中心に館を築き居城とし、八幡宮を氏族の鎮守として崇めました。初めは「渋谷八幡宮」と称していましたが、これが渋谷の地名の起こりともいわれます。 重家ははじめ、子がなかったので、八幡宮に願をかけて、金剛夜叉王のお告げを受けて、男子をえたので、金王丸と名付けました。17才で、源義家に従って出陣し、戦功があったと伝えられており、渋谷家は代々長男が金王丸と名付けられたようで、後に金王丸の名声にちなみ「金王八幡宮」と称するようになりました。 江戸時代は、江戸八所八幡の一つとして数えられ、現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに慶長17年(1612)に寄進したといわれています。 その後たびたび修理されましたが、渋谷区内では最古の木造建築物であり、江戸時代前期から中期の建築様式をとどめている貴重な建物です。 |
社殿の右側に金王桜があります。一重と八重が一枝に混在して咲く珍しい桜として、江戸時代には郊外三銘木のひとつと数えられており、広重の錦絵にも描かれています。現在の金王桜は何代か後のものですが、大正のはじめに実生を育てたもの。社殿の左にも苗が植えられているほかに、宝泉寺にも戦後植えられた樹が花を咲かせています。 金王桜の根方には、芭蕉の 『しばらくは 花のうへなる 月夜かな はせを 』 の句碑があります。(写真右側の石碑) |
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石段を下ると参道がありますが、その先に一の鳥居があります。この前を旧鎌倉道が通っており、奥の神社から参道を進み、右折(写真左方向)すれば並木橋から目黒川へ、左折(写真右方向)すれば青山学院横を通って原宿、千駄ヶ谷を通って奥州街道へ通じる軍用道路となっていました。 鬼平犯科帳に登場する金王八幡宮 『宏大な境内の中にある稲荷堂前の草に寝そべっていた小男の浪人が 「待てよ、お前ら・・・・・」 やわらかい、やさし口調で無頼漢どもをよびとめつつ、むっくりと半身を起した。 ここは、当時の江戸の郊外、渋谷村の金王八幡宮・境内であった。』 『渋谷の金王八幡を中心に探索をすすめたところ、たしかに上杉浪人からききとった人相の男が、渋谷村の清遠寺に泊まっていたことがわかり、昨日の朝早く寺を出たきり、まだ戻らぬ、という。』 鬼平犯科帳・第四巻「霧の七郎」 |
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まもなく左写真の「ように、正面に國學院大學のタワー校舎が見えてきますので、それを目印にして國學院大學正門前を通りましょう。 | ||||||||||
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さぁ いよいよ「普光山・吸江寺」に到着です。静かなこぢんまりとしたお寺でしたが、特に見るもはありません。しかし「板倉家累代の墓」が残っています。板倉家は安中藩板倉周防守家。また若狭小浜藩酒井家も吸江寺で葬儀を営んでいるとのこと。さすがに大名家とのつながりもあったというお寺だけあって、鐘楼等も見事なものでした。 | ||||||||||
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帰り道、並木橋へ出るために、「氷川神社」の境内を抜けました。ちょうど祭礼で賑わっていましたが、広さといい、木立の茂った様といい、これが東京?というような雰囲気でした。 渋谷氷川神社 この氷川神社は、古くは氷川大明神といい、旧渋谷村、下豊沢村の総鎮守でした。創始は非常に古く、慶長10年(1605)に記された「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の御代、日本武尊東征のときに、当地に素盞鳴尊を勧請したとあります。 境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲の相撲場の跡があります。江戸時代には、秋の例祭に参道傍らの相撲場で大相撲が行われ「渋谷の相撲」「金王の相撲」などといわれ、近郷近在はもとより江戸表からも見物人が集まり、将軍家でさえ見物したとか。 現在の社殿は昭和13年11月に氏子町内の寄付により総桧造で造営されたもので、戦災にもあわず、現在では都内有数の木造神社建築となりました。境内全域が渋谷区の保存樹林に指定されています。 |
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鬼平犯科帳に登場する渋谷氷川神社 『翌日の昼ごろ。渋谷の氷川明神社の境内に、長谷川平蔵と岸井左馬之助の姿を見出すことができる。現代から約二百二十年ほど前の渋谷は、江戸の郊外で、寺院や武家屋敷、大名の別邸などがある区域をのぞいては、田園の風景そのものといってよかった。 氷川明神の鳥居をくぐり、折れ曲がった参道を渋谷川のほとりに出て、左へ少し行くと、道端に、古びた百姓家が一つあり、土間や軒先へ、わずかばかりの荒物を並べ、商っているらしい。』 鬼平犯科帳・十四巻「あごびげ三十両」 |
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ということで渋谷・吸江寺付近のぶらり歩きを終えたのですがちょっともの足りない。何しろ、流祖が通った「吸江寺」は麻布であって、この渋谷の吸江寺ではないのです。麻布の吸江寺・・・・どうなっているのだろう?この渋谷の吸江寺は古地図や絵図などにも大きく書かれており、広大な敷地を持った寺だということがわかります。では麻布桜田町の吸江寺は・・・?これが古地図などを見ても出ていないのです。桜田町という地名は現在はありません。どうなっているのだろう・・・? この疑問を解決してくれるサイトがありました。「無外流兵法譚」。近世史研究会という皆さんが立ち上げているサイトです。 このサイトによると、麻布桜田町は「桜田神社」に由来する地名で、現「さくら公園」「さくら坂」の周辺。六本木ヒルズ「グランドハイアット東京」の脇のあたりになります。このあたりに古地図で 大きく表示されている「正光院」と「専称寺」の二寺が同じ場所に現存しています。この古地図には吸江寺がない。吸江寺移転後の地図なので載っていなくても当然なのですが、移転前の年代の地図にも「正光院・専称寺」はあるが「吸江寺」がないのです。しかしこの二寺の間に、カタカナで「クウカウ寺」と書かれた寺がある。また別の地図には「龍光寺」「立光寺」と書かれた地図もあるとのこと。これは「キュウコウ寺」を「クウカウ寺」と書いたために、後の人が「リウコウ寺」と読み間違え間違った漢字を当ててしまったらしい。ですから麻布の吸江寺は「正光院・専称寺」の間にあったとうのが結論です。 そこで、後日麻布を訪ねて見ました。 |
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桜田神社 麻布桜田町は、現在の六本木六丁目交差点から広尾に抜けるテレビ朝日通り沿いの両側に位置する、南北に細長い町でした。寛永元年(1624)に、現在の霞ヶ関周辺にあった桜田町の住民が、霞ヶ関が武家地に なるのに伴ってこの地に移住してきたのがはじまりです。 「桜田神社」は治承年間(1180頃)霞ヶ関の霞山付近に、源頼朝公が武州豊島郡の領主、渋谷庄司重国に命じて建立、霞山稲荷明神とあがめられましたが、住民が移住したのに伴いこの地に移転しました。 今、この鳥居の前に立って前方を仰ぎ見ると、六本木ヒルズのビル群が迫ってきて、何とも不思議な光景です。 |
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専称寺 江戸時代初期、寛永7年(1630) に創建された、浄土宗のお寺です。このあたりは陸奥白河藩阿部播磨守(はりまのかみ)の下屋敷があったところ。新選組の沖田総司の生誕地でもあり、専称寺が沖田家の菩提寺で、総司の墓もこのお寺あります。 |
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沖田総司は、1844年(天保15年)、この寺の近くにあった白河藩の下屋敷で生まれました。 現在は墓前に直接参詣することはできませんが、寺の右側の細い道を入った左手に墓地があり、塀越しに見ることができます。写真の小さな屋根のかかったお墓が沖田総司のお墓です。 | ||||||||||
正光院 正光院の正式名は瑠璃山正光院、真言宗のお寺です。専称寺と同じく寛永7(1630)年の創建。江戸期には子安薬師と呼ばれ、庶民の信仰を集めていたといいます。 |
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旧吸江寺跡 さぁ ここが吸江寺の跡ということになります。左の写真は正光院の前から専称寺方面を写しています。写真一番左に駐車中のバンの前が専称寺で、その先が「六本木ヒルズ」です。ですからこのローソンの建っているところに吸江寺がありました。ですから流祖「辻月丹」はこの道を通って麹町から通ってきていたということになるわけです。この地に立ったとき、渋谷の吸江寺を訪問したときよりもっとドキドキとしてしまいました。 |
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以上で吸江寺訪問を終わります。 興味のある方は「無外流兵法譚」をご覧ください。 参考資料としての紹介や引用、リンクを快くお認めくださった「近世史研究会」に感謝いたします。 |