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■帰命山養玉院如来寺 江戸時代に「生き仏」「帰命仏」と呼ばれ日本全国に多数の仏像を残した「木食但唱上人」が、弟子たちと芝高輪に五体の如来像(五智如来)を造立しました。それが、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍を補佐したといわれる東叡山寛永寺の天海上人を通じて家光の耳に入り、家光は但唱を天海の正式な弟子とし、大和高取藩植村家に経済的支援をさせ、如来寺を建立しました。五智如来に由来して『高輪の大仏(おおぼとけ)』と呼ばれ、五体満足五智円満運の強い仏様として古くから参拝する人が跡を絶たなかったといいます。しかし度重なる火災により明治41年現在の西大井に移転しました。 |
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山門の脇から入ると、参道は上り坂で、左に鐘楼、右に明王堂があり、境内に入ると左に「大雄宝殿」、正面には 「瑞応殿」とあり、ここに大仏が5体安置されています。 | |
鐘楼 | |
大雄宝殿 | |
瑞応殿と五智如来 五体の如来像ですが、薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀、釈迦如来ですべて木造如来坐像です。木食但唱作といわれていますが、但唱のものは火災により焼失し、薬師如来の頭部以外は総て再造されたものです。 |
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また、如来寺は大正12年の関東大震災で被害に遭わなかったため、大正十五年に上野寛永寺の塔頭であった「養玉院」と合併しました。養玉院は、天海上人の弟子の賢海が、寛永十二年(1635)に寛永寺の塔頭として建てた三明院が基となり、元禄十一年(1698)下谷坂本町に移って養玉院に改称しました。この養玉院は対馬府中藩・宗家の菩提寺です。 荏原七福神の一、布袋尊を祀っています。 |
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さて、瑞応殿(下)の左手から墓地に入ります。まず真っ白い萬霊塔目に入ってきますが、この左脇を抜けた右側に「辻家の墓」(左写真)があります。 |
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二代宗家・辻右平太 | 三代宗家・都治記摩多資英(すけひで) |
辻月丹と同じ近江国甲賀郡馬杉村の出身で、辻月丹の甥と伝えられています。 若くして病気で失明。盲目の剣士となったが、その剣に微塵の狂いもなしといわれています。 前橋藩酒井家江戸屋敷の剣術指南役。 寛保二年(1742)没 |
府中・大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)の大宮司・猿渡豊後の息子で、もとの名前は猿渡文五郎と言いました。 辻月丹の養子 土佐藩山内家江戸屋敷の剣術指南役。 右平太が甥、記摩多が養子であり、記摩多を宗家とせず、記摩多を二代目とする記録もある。 宝暦十二年(1762)年1月28日没 |
四代宗家・都治文左衛門資賢(すけたか) | 五代宗家・都治記摩多資幸(すけゆき) |
都治記摩多資英の息子。 土佐藩邸、姫路藩邸で剣術指南をしていたました。 天明七(1787)年7月15日没 |
都治文左衛門資賢の息子。 初めて小姓格として正式に土佐藩士として迎えられました。 文化九(1812)年8月26日没 嫡子が無く、土佐藩士から養子を迎える。 文左衛門資信 金市郎嘉重 喜摩太茂岡 亀五郎定篤 と続くが・・・ 江戸無外流は五代まで 六代・高橋 八助 充亮 以降無外流は姫路藩に移る |
池波正太郎は剣客商売の中で秋山小兵衛の師匠を三代辻平右衛門としていますが、二代右平太を数えないとすると、都治文左衛門資賢のことだと思われます。しかし二代喜摩多の出自等考えると、フィクションということになります。 『そもそも「無外流」の剣法を創始したのは、近江甲賀郡馬杉村出身で、辻平内という人物である。平内はのちに「月丹」と号した。くわしい経歴は不明である。(中略)独身の平内が七十九歳の高齢で病没したのは享保十二年(1727)のことで、以後は道場を杉田庄左衛門が引き受け、名も「辻喜摩太」とあらためたのである。辻喜摩太も、生涯、妻を迎えず、したがって子もなかった。そこで、愛弟子の三沢千代太郎をもって後つぎとなした。千代太郎は、名を、「辻平右衛門」とあらため、道場を引きついだ。この、辻平右衛門の門人の中で「竜虎」だとか「双璧」だとか評判された二人が、秋山小兵衛と嶋岡礼蔵なのである。』 剣客商売 第一巻「剣の誓約」 |
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庫裏の前に線香を売っているので、線香を買って累代の宗家の墓にお参りしましたが、流祖辻月丹の墓がありません。高輪からこちらに移る際に不明になってしまったらしいのです。残念! また、この寺を菩提寺としている大名家の植村家・宗家の累代の墓もあるのですが、時間がないのでお参りは省略いたしました。 では、芝高輪の如来寺はどこにあったのか・・・・。これは簡単です。移転が明治時代なので如来寺はしっかりと古地図に載っています。なんと、「芝高輪・泉岳寺」の隣なのです。泉岳寺といえば忠臣蔵浅野内匠頭と四十七士が葬られている寺。そのとき辻月丹は存命です。また、浅野内匠頭がお預け切腹したのが奥羽一関藩田村家江戸屋敷。この田村家はしばしば麻布吸江寺で葬儀を行っているのです。私に文才があったら・・・・・おもしろい小説が書けるのですが・・・・。 |
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このブラブラ歩きとレポート作成に当たり「近代史研究会・無外流兵法譚」を参考にさせていただきました。ありがとうございます。 以下の記述には共感できますので引用させていただきます。 100年後、200年後のこの国の人々に、無外流が認知されているとすれば、それは昭和という激動の時代に無外流を広めた中川を初めとする師範たちすべての功績であると考えます。我々は、彼らすべてが中興の祖だと考える次第です。そして、四百年前の山口卜真斎から現在まで、誰一人が欠けてもこの物語は成立しませんでした。現在の無外流も、こうした先人たちが開拓した歴史の延長として存在していることを、あらためて知って欲しいと思います。 「無外流兵法譚・辻月丹はここにいる 無外流祖・辻月丹物語 不死鳥の章」より |